母ヶ岳の優雅な姿を背景に、麓一体に美しい街並みが佇む知覧の武家屋敷庭園。
街並み全体はまるで箱庭のような趣があり、「薩摩の小京都」と呼ばれている。
およそ260年前から変わらぬ姿を保ち続ける武家屋敷庭園に一歩足を踏み入れると、そこは別世界。
静かな空気が流れる中、薩摩の武士の熱い息づかいを感じる。
また、広い敷地内には国の名勝に指定された七つの庭園があり、端正にして優美な光景が目の前に広がる。

※詳しくは、知覧武家屋敷HPをご覧ください。

開館時間:9:00~17:00
休館日:年中無休
入館料:大人500円・小中学生300円
問い合わせ:知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合(知覧武家屋敷庭園保存会)
(住所:南九州市知覧町郡13731-1) (TEL:0993-58-7878)

■事務局年末年始の営業案内■
武家屋敷庭園は年中無休ですが、事務局はお休み(12/29~1/3)となります。


■入園券取扱箇所 ※入園券は、必ず手にもって散策してください。■

 路線バス利用の方 → 武家屋敷庭園入口バス停下車の場合

            ◎河上橋駐車場内 川口茶舗 (英国館斜め向かい)
            ◎真茅商店 (お菓子の小田屋向かい)
            ◎7番庭園 森庭園売店 (7番庭園内)

          → 中郡バス停下車の場合

            ◎辻商店(武家屋敷通入口向かい)

 自家用車利用の方 → 河上橋駐車場内 

            ◎川口商店
            ◎真茅商店

          → 武家屋敷駐車場内

            ◎森商店

          → 市役所西駐車場内

            ◎辻商店

ホームページ: http://www.chiran-bukeyashiki.com/


  • 1月20日まで!!

ちらん武家の正月飾りは、古式にのっとた武家の正月行事で新年を迎えた家庭に幸を届けてくれる年神様の目印として門に飾ります。「しめなわ」は、神聖の区域の堺を意味し、龍(大蛇)の姿を表現しているという説もあります。
門松は3段階に変化し、それぞれに意味があり、飾り物もそれぞれ意味を込めて、七日正月飾り(1月7日~13日)には魔払いの意味があり、小正月飾り(14日~20日)は五穀豊穣を願ったものです。




ホームページ: 知覧武家屋敷庭園


知覧武家屋敷庭園内に藤棚公園が出来ました。現在藤はわずかですが、2~3年後には、藤が垂れ下がる華やかな公園になります。武家屋敷散策のひと時、ベンチにすわってゆったりとお過ごしください。
※場所は、西郷恵一郎邸横です。


全国各地にある記念パネル。
知覧武家屋敷庭園事務所には、本物の鎧の顔パネルがあります。兜をつけて、鎧に顔をはめパシャリ(*^_^*)
とてもいい記念になりますよ!

■知覧武家屋敷庭園事務所■
 
 TEL 0993-58-7878 9:00~17:00 年中無休


知覧武家屋敷通り南側に、「ちらんたけのこの里 竹林ロード」が完成しました。鳥のさえずりを聞きながら、静かな竹林ロードで心を癒してくださいね。
今後は憩いの場としてお茶が一服出来る茶屋も作られる予定です。


江戸末期文化文政時代(1804~1829)の作庭と伝えられています。
庭園は主屋の南に開け、東南の隅に枯滝を組み三層石塔を配しています。
庭の南東部の隅に枯れ滝の石組みを設けて高い峰とし、この峰から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現しています。
また、鶴亀の庭園ともいわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海に注ぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせが至妙な庭園です。

【道路からの外観について】

石を積み上げ土塁を造り、その上にお茶を低く刈り込み、その後ろにマキの高い刈り込みといった3段構成になっています。3段にすることで2段よりかなりソフトな感じを受けますが、本来の目的は中の動静が伺い知れないようにとのことだそうです。
(土塁を積み上げる手法は、琉球、中国あたりでよく見かける手法である。)
【門の中に入りながら】

知覧の庭園の特色は、門からカギ型に入って、玄関に達するまでに、通路から庭園が眺められるようにできています。
【庭園の中で】

この庭園の造りは、掛軸によく見られる中国で発達した山水画を参考にしているものと思われます。
この地域の庭園の特色は、外塀の代わりにイヌマキを植え波状に大きく刈り込んで、それを背景にその手前に石組みによる庭が造られています。
また、この庭園は、庭園の一番奥に石を高く積み上げ、イヌマキと同じように左右を徐々に低くし、遠近の方法で石組みによって遠くの山や岩、滝、川といったものを表現し、最後は大海に見たてた庭園流れ込むという手法をとっていますが、こういう石組みによる方法を枯れ山水といいます。
こういう門からの入り方やイヌマキの刈りこみ方、石組みの方法などは、この薩摩地方特有のものだそうです。
石組みの所々に置き灯篭や層塔が立っておりますが、琉球によく見られる手法です。
このような作庭は、室町時代の中期に、禅宗の書院などに小庭様式として成立したといわれています。


明和年間(1764~1771)の作庭と伝えられています。
主屋の北側にあり北東隅に枯滝を組み、石組みは西に連なっています。
背後に築山風の大刈込み、外側に生垣がめぐり東北部は高さ4mに達します。
母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園。北側の隅には石組みを設けて主峯とし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっています。また、どこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現にすぐれた庭園として絶賛されています。大海原には無人島が浮かび、遠くには緑の大陸が望まれ、想像とロマンの世界で楽しめる庭園です。
【庭園を出るときに】

武家屋敷の門を入ると、必ず左か右のどちらかに厠がありました。これには いろいろ説がありまして、家人が出かけるときや帰ってきたときに用を足すためのものとか、来客用のものとか言われておりますが、一説には日長ここに座っていて往来を行き来する人々の声に耳を傾けて、情報を得るという役目もあったといわれています。
【石積み】

この石垣の石積みを、見ていただきたいと思います。右側切り石積み、左側は玉石積みとなっていますが、切り石積みが本家筋、玉石積みが分家筋と言われております。
【十文字のところで】

ここに立って、東西南北に広がる道路を見てください。
南北に通ずる道路は、先が見通せないようになっています。また、東西の道路も真っ直ぐには交わっていません。屈折させて結んでいます。また、四叉路となっているのもここだけで、他は全て丁字型、三叉路に作ってあります。
この作りは、軍事上重要な役割を果すもので、戦のときなど敵の軍勢を分断し勢いを弱めたり、不案内な者にはかなり不便な作りとなっています。


天明元年(1781)の作庭と伝えられています。
石組みの一つもない大刈込み一式の庭園です。
イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にはさつきの大刈込みが築山のようで、母ヶ岳を庭園に取り入れて極端に簡素化された借景園として、名園の名をほしいままにしています。
【入り口で】

全ての園が、入り口の石段は幅の広い石を使ってありますが、日本国内で見られるものとは異なり、沖縄によく見られる感じのものだそうです。
【入りながら】

この庭園も例のようにカギ型の入り口で、この家は悪魔よけのヒンプンは有りませんが、ヒンプンに相当する石垣が右側突き当りに置かれています。そして、玄関に行くまでに庭が眺められるということも、他の庭園と同じです。
【庭園で】

この庭園の一番の特色は、石組みが一つもないということです。
そして全部がサツキに覆われており、こういう庭園を大刈り込み式の庭園というそうですが、主に京都地方によく見られるもので、大和の慈光院、近江の大池寺が有名で、南国では非常に珍しい庭園だそうです。
また、刈り込みの前面に台形の切石を並べて、庭園を形作るという手法は、全国的にも珍しいもので花や盆栽等を乗せて鑑賞したり、和歌を読んだりしたものといわれていますが、やはり沖縄の首里城に石の据え方が共通したものがあるそうです。
大刈り込みは、桃山時代から江戸時代初期にかけて日本庭園に発生したと言われていますが、この庭園は後方に望まれる山(母が岳)を中心とした山並みを庭園に取り入れた借景園で、かなり平面的でやわらかく女性的な感じを受けます。
この長い石をくりぬいて水をはったものは何だと思いますか。
これは、馬の飼い葉桶ではありません。こういう長い石をくりぬいた水鉢は国内では珍しく、一説には、刀や槍の血のりを落とすためのものといわれています。当時は、太平の世の中ではあった訳ですが、戦の準備だけは怠らなかったことが伺えます。


宝暦年間(1751~1764)の作庭と伝えられています。東南隅に大きな立石による滝石組があります。
この庭園は、知覧島津氏の本筋にあたり、知覧庭園の中で最も豪華で広い庭園と言われています。
枯れ滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には各所に巨岩による石組みを設けています。
門を入って右に折れて書院の前に出ると、本庭の主力の滝を中心とした石組みは延々と流れ、訪れた人々に力強さと広さを感じさせます。
【出口のほうへ足を運びながら】

この庭園は他の庭園と違って道路から真っ直ぐ入るようになっています。
惜しいことにこの庭園は、建物の改築により門の位置を動かしているということです。
そして、その改築した建物も全焼してしまったことです。
玄関に至るまでに右側に直接庭園が眺められるという形態は、他の庭園と同じでございます。
【通りに出てから】

この門の作りを見てください。門の屋根は二重構造となっております。
これは、本家分家、身分の高低等によるものだそうです。


寛保・寛延・宝暦(1741~1763)頃の作庭といわれ、知覧庭園群の中でも石組み及び庭園の地割構成が最も技術的にも感覚的にも力強い庭園です。
主屋の北側にあり、北西隅に高く石組みし三層石塔を置き、カエデ、マツ、イヌマキなどを植栽し、中央部から東部にかけて巨石を配しています。
巨岩奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を写しだし、小船に乗って石橋の下を潜っていくと、仙人が岩の上から手招きしているようです。麓川の上流から運んだ庭石は凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割り、牛馬で運びやすくしたものです。
【枯滝石組】

巨石奇岩をもっとも大量に用いている庭で、一番奥にはツバキやマキの大刈り込みが、築山風に背景をなしています。巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を映し出し、個性豊に重厚壮麗といえるものがあります。
小船に乗って石橋をくぐって行くと、岩山の上から仙人が手招きをしているような気がします。 庭石は、麓川の上流、宍が城付近から運んだ凝灰岩質のもので、運搬のため石目にそって割り、積みながら元どおりにしたものです。
この庭の石組みには圧倒されるとよく聞かされます。
先端の巨石を畳み込むように組上げ、流れ口は山から流れ出る渓谷といった感じの滝石組みで、まさに山水画そのものといわれています。
滝石の下部に砂利を敷き詰め、石橋を掛け、その石橋に書院から飛び石を数枚打つ、この枯滝手前の石橋とか砂利を敷き詰め飛び石を打つなどの手法は、他の庭園では見られないこの庭のみの手法です。


大刈込式蓬莱石組庭園で作庭は寛保年間(1741~1744)と伝えられています。
庭園は主屋の北にあり、北東隅に築山を設け大きな立石で枯滝を組み、石垣はさらに西へ連なり、間にウメ、イヌマキ(知覧ではヒトツバという)の古木を配している。
門をくぐると切石の目隠しにつき当たりますが、これは屏風岩と呼ばれ、防衛を兼ねた造りで江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えています。
母ケ岳を望む庭の一隅に築山を設けて、その中心部に3.5mの立石がそびえ、下部には多数の石組を配して枯れ滝としています。
何か大陸的で一幅の水墨画をそのままに現した名園です。
【庭園で】

梅・イヌマキを主木とし、これを交互に配している手法は他の園に見られないものです。
また、この庭は、山水の技法のほか儒教の影響も強く受けておりまして、外観による陰陽の表現だけではもの足りず、石の裏側をくり貫いて、石の表で陽を裏側で陰を表しています。


寛保年間(1741~1744)の作庭と伝えられています。
山麓に位置し、唯一の池泉庭園です。
園地は主屋の南西に細長く、東南隅に滝口を設け、池底は漆喰仕上げ、刈り込み背後にはスギが植栽されている。
古風を伝える土蔵の存在も併せて庭園の史的価値を高めています。森家は、亀甲城の西側麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で住居や土蔵は寛保初年(1741)に建てられたものです。曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の山や半島をあらわし、対岸には洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴しています。庭園入口の右隅にある石は、庭園の要となっており、雲の上の遠山を現しています。
【建物について】

ここの森家の祖先は、代々文人として名高い格式の高い家柄であったそうで、領主がよく遊びに来ていたそうです。
床下に石組みが見えますが、あれは曲者とか間者が中に入れないように、中の様子が伺えないような仕組みとなっています。
玄関のほうですが、領主が時々遊びに来ていた関係で、森家では、領主専用の玄関を作りました。右側が領主用、左側が家人用の玄関となっています。部屋の間取りや天井等にも独特の工夫があるそうです。
【土蔵の屋根について】

土蔵の屋根は固定されずに、シュロで作った縄で白壁に結んであります。これは、火災等の時屋根を瞬時に取り外し、中のものが蒸されないようにとのことだそうです。
土蔵は、粘土を固めて作ってあり、燃えにくいことと湿気が多くなれば吸収し、乾燥すれば湿気を発散して、土蔵内の湿度や温度を一定に保つという役割を持っていました。


1615年徳川幕府は、武家諸法度を制定し、一つの藩に一つの城しか認めないという、一国一城制を敷いた。このため各藩では、戦国時代以来の外城を廃止し、武士を城下町に集めて住まわせたが、薩摩藩では、そのまま従来の外城のあった麓に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。(郷士という。)
城は無くしても軍事組織はそのまま残し、「人をもって城となす」という政策をとったのです。
このような郷士の分散配置に当然幕府は疑問を持ったが、これに対し薩摩は、「かつて島津氏が九州を制覇した頃の武士人口をその後薩摩藩に引き入れた。一箇所に住めないので分散して居住している。」と答えたという。実際薩摩藩は、士族の数が全体の約26%、平均は6%だった。
この外城制度は、対外的には、中央政権との対決に備えるもの、対内的には、農民統治、一揆対策のための役目を果たした。

今の行政庁にあたるもので、5人の合議制で執務が行なわれていた。
薩摩藩は、他藩に比べて士族数が極めて多く、26%ほどでありました。(全国平均は、6%だったそうです。)
徳川幕府は、一つの藩に一つの城しか認めないという一国一城制を敷きましたが、薩摩藩では士族の多いことを理由に、藩士はそのまますべて従来の外城麓に住まわせて、中世と同じように半農半士の生活を送らせました。
城は消えても、軍事組織はそのまま残して「人をもって城となす」という政策をとりました。
これを外城制度といい、地方行政組織の役目を果たしました。
薩摩藩では、113の外城があり、外城の中心に郷士を住まわせました。
(麓)周辺に農村集落(在)を、農村の商業地域(野町)、漁村(浦)の商業地域(浦町)、寺社門前町等を配置しました。
お寺は、川の向かい側にありその周辺にも当時の町並みが残っており(中郡北地区)、知覧島津氏の墓地もその地区のはずれに残っています。
麓では、今の行政組織である御仮屋を中心に馬場(大路)をつくり、この馬場を挟んで武家屋敷を形成し、随所に筋(小路)を通しました。この真っ直ぐ伸びている道路を城馬場通りといいまして、鹿児島城下への往来に使われていました。
知覧の武家屋敷がこのような形に整備されたのは、18世紀中頃といわれています。
この武家屋敷群は当時のままの形で残されています。
その中の7庭園が昭和56年2月に「名勝」として、国の文化財指定を受け、さらに11月にこの麓地区18.6haが重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、この城馬場通りの780mは昭和61年に建設省が指定した「道の日」にちなんで選定した「日本の道100選」にも、優れた環境で美しい景観が残されているということで、選ばれています。
知覧では、歴史的建造物や景観の保全に充分配慮しながら、電柱の撤去や排水溝の埋設、通りの石垣や生垣、庭園の白土との調和を量るためのカラー舗装などにより、歴史的環境を生かしたまちづくりを進めてまいりました。
これまで見て頂きましたように本町の庭園の作りは、土を盛り上げてその上に住まいや庭を作るとか、石組みによる枯れ山水とか、魔よけのヒンプンと呼ばれる石塀とか、琉球・中国の影響と思われるものが非常に多く見受けられます。
突き当たりに石を立てたものが見えますが、あれは石敢当と言いまして魔よけの石と言われています。琉球・中国に多く見られるそうです。
この突き当たりにある、小さい方の石が石敢当、大きい石の方(馬の尻を叩きつけたような石)は耳塚ではないかと言われています。

中国から伝わったもので、道路の三叉路の突き当たりや門・橋などに立てられた石柱で、石に敢えて当てて邪気を跳ね飛ばすといわれており、邪気を食い止めこれを追い払う威力を持つと信じられていたそうで悪魔よけの一つです。
沖縄や南九州に多く見られるもので、藩政時代、中国との交流が伺えます。

二ツ家は、鹿児島独特の建築様式と言われています。
もともとの二ツ家というのは、居住用の間をオモテ、台所や囲炉裏のある部屋をナカエと言いまして、別々に棟を上げていました。別棟の分棟式民家では、生活上不便が多かったので次第に棟を近づけて家を建て、その軒先を大きな雨樋でつなぐという、樋の間二ツ家へと変わっていきました。
ところが知覧では、二つの屋根に小棟をつけてそれぞれの棟をつないでしまいました。これを知覧型二ツ家民家といいまして、民家建築史の面からも貴重なものと言われています。
昭和57年ここに移築して、保存公開しています。
(知覧型茅葺二ツ家民家)

知覧武家屋敷庭園群入口で「西郷どん」がお出迎えいたします。平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影に使用されたことを記念して建てられたものです。矢櫃橋をバックに記念写真はいかがですか。